ヲトメロナイトに参加しつづけるワケ

9月末の「ヲトメロナイトVol.7」に続いて、この週末は「アポロティックOTOメロディ」に参加しました*1。基本的にVJのみの参加の予定でしたが、終盤になって定番アニソンが少ないと感じてしまったので*2、どさくさに紛れて「ハレ晴レユカイ」だけかけました。楽しかったんですが、年のせいか徹夜はつらいです。次回は札幌を挟んで年末頃に東京でVol.8を開催予定らしいです。さすがに札幌は行けないかなぁ。

前回のエントリーでも書いた通り、1年前の9月に開催されたVol.1から少なくとも東京開催分に関してはそれなりに参加しています。初回は助っ人VJで参加して、年明けと春はほぼフルタイムでVJ、7月には何故かDJデビューまでしてしまいました*3
DJをやることになってしまったきっかけというのも元々は時間繋ぎくらいの意味合いだったんですが、今やすっかり「隙間担当」になってしまっています。ヲトメロナイトでは毎回特色あるDJさんが集まってていろんなアニソンがかかるんですが、無駄に見ているアニメの本数が多いだけあって引き出しが多い分、「あの曲かからないよね」とかそういう話の中からお鉢が回ってきています。そんなわけで9月は全曲声優のみとか、別に奇をてらったつもりはないんですが、今までの流れの中で薄い要素を埋めるポジションになっています。

それなりにオファーされてるという以外に何で(ある意味律儀に)参加し続けているのかというと、純粋にこの手のイベントが楽しいからとか、あとは人的にな縁で参加し続けています。打ち合わせと称してスタッフ同志でしゃべってるだけでも楽しかったりしますしね。このイベントをきっかけにしていろんな人にも出会ってるし、同じような他のイベントにもちょっと顔を出してみてそれはそれで楽しかったり、アニソンを軸とした人との繋がりが楽しいっていうことなのかもしれません。

コミケに参加していた理由のひとつも同じように人的な繋がりが楽しいという側面がありました。ただ単に個人サークルでやってたり、あまつさえ働き始めてしまったりすると、そこまで特に時間的なコストをかけられないというのが、ここ数年サークル参加から遠ざかっている最大の理由です。加えてブログやmixiという媒体が表現やコミュニケーション手段という意味では代替できてしまっているように感じられるというのもあります。
こういうアニソンイベントの楽しさっていうのはコミケの楽しさとは別種ですが、「大音量の中で騒ぐ」っていう行為が瞬発的な濃さが楽しいのかなと思います。「オタク的な何か」とか「アニメ的な何か」くらいの共通点しかないですが、集まる人種が近ければ共有できるモノがあるが故に楽しいんでしょう。


皆さんも是非一度足を運んでみてください。mixiなんかを巡ってみると関連するコミュニティはそれこそたくさんありますし。そんなついでに「ヲトメロナイト」もよろしくお願いします。

*1:そういや告知忘れてた

*2:まあ今回の主旨は必ずしもアニソン主体ではないですが

*3:いや、本職のDJの方には本当に申し訳ない腕前ですが

ヲトメロナイトVol.7に参加します

月一更新になってるのに、いきなり告知です。
7月にもやったんですが、今週末9月27日の「ヲトメロナイト Vol.7」でDJ&VJをします。「日本が世界に誇るアニソンで世界中のナイトシーンを平和にし、夜遊び犯罪を撲滅しよう!」という素敵なイベントです。平たく言ってしまうと、一晩中大音量でアニソン流しながら踊り狂おうぜという感じでしょうか。
この中で30分ほどのDJとほぼ全編でVJをさせていただきます。DJパートでは声優特集をやる予定。興味のある方は是非。


実は故あってちょうど1年前の初開催の時からいろいろと関わってたりするイベントだったりします。「同人誌作るモチベーションは薄い」みたいな話は何度か書いてますが、どうもこの手のイベントだと不思議とモチベーションが発揮できたりするのが不思議なもの。
終わった後にでも、雑感やこの手のイベントに対して思うことなんかも書いてみようかなと。

コミケ限界説を深く考えたC74

久しぶりの更新です。仕事が忙しいというありがちな理由はありますが、昨日今日とコミックマーケット74に参加してきました。相変わらず久しぶりにサークル参加したい欲求は薄く持ち続けてはいますが、今回も一般参加です。

さて、今回のコミケではいつになく「コミケ限界説」を強く意識してしまいました。直接的には開催直前に発表された手荷物確認によるものと、ワンフェスでのエスカレータ事故を踏まえた導線の変更が大きいでしょうか。他にも「ポプルス騒動」とか関連して「竹箒騒動」とかもありました。それなりの混乱はあったり、雨がつらかったという面はあるものの、まあまあつつがなく終了したという風にも見えました。
とはいえ年々参加者が増え続けていく中で、今回は確実に60万人(つまり平均しても20万人/日)を超えているという印象があります。去年の夏コミや冬コミに比べて人口密度が高かったように感じました。前述したような導線変更に伴う混乱も関連するかもしれませんが、実質的には東京ビッグサイトの物理的キャパの限界を意識せざるを得ません。ましてや今回はコスプレ広場が1F庭園になったという変更もあり、人がいられる場所が拡大したに等しいにも関わらずそう感じるというのは*1、参加者の増加を如実に表しているような気さえします。

また今回はここ数年のオタク界隈での流行廃りの流れも踏まえて、「コミケ初心者が多いんじゃないか」「コミケが何なのかわかってない参加者がいるんじゃないか」ということが語られますが、若年層が増えてるというのはある程度事実でしょう。同時に高年層があまり引退してなくて、結果的に参加者が増え続けてるということなのかもしれません*2。それと同時にオタクのカジュアル化の進行と共に、古いタイプのコミケ参加者に感じられたような「濃い人」ではない人が増えてるというのが輪をかけているのかもしれません。

さらに今回、児童ポルノ禁止法改悪*3の反対署名活動が行われていましたが、これもコミケが抱える問題・危機のひとつです。実際どれくらいの人が署名したのかは事務局等から発表されると思いますが、あまりこの問題に興味ない参加者も多いのかなとも思います。

コミケに対する限界感や危機感はまずは物理的なキャパの問題から感じられてしまいますが、同時進行で参加者の「濃さ」や「意識」の面でも危機感を感じざるを得ません。
そんな今回のコミケでのいろんなできごとを概観すると、全参加者の意識としてコミケは変革すべきじゃないかという印象を深く持ったコミケでした。それを危機感として持っているのはスタッフ・サークル・一般共に一部なんじゃないかなという気はします。企業参加にそこまでの危機感は多分無いだろうし*4。でも具体的にどのような変革が可能なのかっていうのは誰にも模索し切れていない中で、現実的な規制や変更だけが先行して進んでるのが今回のコミケだったんじゃないかと思いました。

まずは全参加者が「コミケの意義」について考え直すところから始めてもいいのかもしれませんけどね。

*1:ここ数年は「とな博」との共存も奏功してるのかなとは思いますが

*2:人のことは言えない。思えば15年コミケ行ってるけど、おっさん化した気がするなぁ。晴海の頃が牧歌的だったような気さえする。

*3:あえて「改正」ではなく「改悪」と言います。私も署名してきたので

*4:企業参加の当選率も下落傾向にあるという話を聞くと、それはそれで違う危機感を持ってるかもしれませんが

平野綾という生き方

遅ればせながらNHKトップランナー平野綾の回を視聴。トップランナーを見るのって久しぶりのような気がしてたけど、たぶん3月の桜庭一樹の回を見てるな。とはいえトップランナーに声優が出るのっていつ以来だろうと思って過去の履歴見てみたら、98年2月の林原めぐみ以来かもしれないのか。アニメ系の監督とか漫画家とかが出てるのに比べるとペースが少なすぎるようにも思うけど、NHK的基準で言う「声優界のトップランナー」っていうとそういうことなのかもしれん。
ていうか、NHKが愉快な過去の映像持ってるのにはバカウケだった。

結構複雑な感想があるんだけど、何か若いなぁという雰囲気を言葉の端々から感じた。いや、実際に若いから当然とも思えるし、NHKの録画の番組ということにも関わらず*1、ものすごく言葉を選びながらしゃべってるのが印象的でした。彼女なりに声優という仕事に誇りと自信を持っていつつ、それでいて掴みかねている部分もあるんだろうなとか、そんなことを考えながら見ました。良い意味でも悪い意味でも、この人は「10年後の自分」っていうのを想像していないんだろうと感じてしまいました。おそらく具体的な未来図っていうのは持ってないけど、おぼろげな想像図はあるっていう方が正確かもしれません。

彼女流の「目標を立てない主義」っていうのは面白いと思ったんだけど、根底では単なるアイドル声優になってしまうことを拒否している部分があって*2、たぶん林原めぐみみたいなタイプがこの人の理想なんだろうな。おそらくよほどのことがない限り単独ライヴとかもやらないんじゃないかと思いました。
そういうポリシーを持っているからこそ、10代半ばで児童劇団から声優になるっていう転換ができたのかもしれません。と同時に『ハルヒ』以前の段階で自分の立ち位置とかあり方について確信めいたものを持てていたんだろうし、だからこそあのハルヒ役ができたんじゃないかなと思いました。

もうひとつ注目したいのは、すでに知られた話題ではあるけど、児童劇団出身でそこからいろんなコンプレックスや思うところがあって声優に転身しているという点。つまりアニメ好きとかから専門学校や養成所を経て声優になったというタイプではないというのも、平野綾の来歴として面白いところです。
別に声優系専門学校とか養成所の存在意義を否定する気はないですし*3、優秀な人材を輩出しているところがあるのも事実ですが、こういう最も古くからあるタイプの声優への道っていうのももうちょっと注目されてもいいのかなと思いました。純粋に小学校くらいの話をしてる時の平野綾の話ぶりが楽しそうだったのが印象的なだけかもしれないけど、それくらいの年齢から演技に対する思いがあったっていうのも重要なのかもしれません。

とにもかくにもランティスに騙されなければ演技派路線で行けるんじゃないかな。すでに『ハルヒ』のイメージが強すぎて、『二十面相の娘』なんかでは少し違和感があるけど、いわゆる「七色の声」と呼ばれるような素質はあるんじゃないかというのは特に06〜07年くらいの一連の出演作で感じてはいたので、ヘタなアイドル化に走らずにいろんなタイプの役をやっていって欲しいもんです。

*1:後からどのくらい編集されてるのかは知らんけど

*2:過去の発言からもそれは感じられる

*3:多少淘汰されてもいいとは思ってますが

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は作られるべくして作られていると思った

やっとDVDで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を見ました。
非常に思い入れのある作品ではありますが、昨夏の劇場公開時には「別に今さらまた映画化しなくてもいいのになぁ」という思いがあって、結局見ずじまいでしたが、ついDVDのしかも特装版を買ってしまいました。

今回の劇場第一弾『序』に相当するエピソードを見るのは、たぶん4年振りくらいです。初回本放送時から数えると何回目かはもはやわかりませんが、4年ぐらい前に全話通しで見た記憶があります。毎回見る度に今回の映画に相当する部分、特に対サキエル戦と「ヤシマ作戦」の対ラミエル戦はいつ見てもドキドキできてしまいます。話の組み立て方の上手さと演出のドラマティックさは、何回見ても飽きません*1
新劇場版になって今まで以上に映像がディファインされてたり、微妙に新構図や新演出が追加されてたりして、個人的にはその辺はプラスに作用してるかなと感じています。一部では画質に対する不満もありますが、ある種本放送時の味わいを出すためと捉えれば別にいいんじゃないかなとも思います。

全ては庵野監督の所信表明に現れてると思うんですが、「12年前のアニメを今作り直す」こと自体に意義があるのだと感じました。「エヴァ以降」と言われる時代のアニメの発展と閉塞感に対する庵野監督流の答え、あるいはアンチテーゼとして、「12年前のアニメ」を原作として新作アニメを作ったとでも言えばいいんでしょうか。庵野監督はこの十数年のアニメの歴史を95年からやり直したいんじゃないかという気さえします。
おそらく監督と同年代でかつての同志である岡田斗司夫が感じた悲壮感に近いものもあるのかと思います*2。「エヴァ以降」の時期に庵野監督が実写映画に傾倒している隙にアニメ界に生じた変化だったり、ここ数年で「エヴァの商品化」が極度に再燃・加速してしまったというのは周知の事実です。それらに対して監督なりに思うところがあって「エヴァを再構築しなければならない」という危機感にも似た何かがあったのではないかという想像は何となくできてしまいます。だからこそ庵野監督自身の手によって、『エヴァ』が再構築される必要があったのではないかと感じました。

それに対する答えが今回の『新劇場版:序』で出ているのかというとたぶん否で、あくまで『序』であり、ネタ振りをしたに過ぎないのかなとも思います。すでに旧作との差異や考察は進んでいるように思いますし、本放送当時似たようなことをしていたのでそれはそれで楽しいんですが、作品の本質や歴史的意義に考えを巡らせると、設定や表現の差異っていうのは些細なことじゃないかとも感じました。
『新劇場版』が完結するのはだいぶ先になりそうですが、そういう『エヴァ』自体の話の本筋とは別の深い意味を持った作品になるでしょう。あるいは現在すでに明らかになっている旧作との差異は、今後話の抜本をも覆すような意味を持ってまさに「再構築」となるような気さえします。エピソードや構図や演出のディテールはともかくとして、本質部分だけを残して監督自らが手をかけることによってこそ「再構築」という言葉がしっくりくるのではないでしょうか。この十数年間で散々語り尽くされた『エヴァ』の議論に対して、監督自ら答え、あるいは新たな方向性を提示するという、そんな劇場版シリーズになりそうです。*3

*1:当時この第六話までで綾波派に転んだのも良い思い出

*2:ちなみに岡田さんの「オタクはすでに死んでいる」は未読。ただ最近の氏の論調は大筋で理解できる部分はあるものの、素直に同意はしかねる感じ。

*3:蛇足ながらあえて書いておくと、そういう楽しみ方をするにはやや一見には厳しいかなという気もします。旧作をリアルタイムでも後追いでもどっぷり見てないと、楽しみどころがちょっとわかりにくいかも。今の若いアニメオタクならそれなりに楽しめるだろうけど、そうではないパチスロ辺りから入ってるようなライト層には少し難解過ぎないかなぁと。まあ難解なのは『エヴァ』の醍醐味ではあるけど

2008年春期アニメを見ていて

どうも2ヶ月振りくらいの更新になってしまいましたが、まあ独り言。
ごくたまに、それでいて周期的にやってくるんですが、この春の改変期の前後くらいの時期はアニメに対する集中力が落ちてきています。
春に終わったアニメだと何が面白かったですかねぇ、『CLANNAD』も『H2O』も『シゴフミ』も嫌いじゃなかったんだけど、ラスト辺りがいまいち煮え切らない感じだった。『カイジ』『ネウロ』もこれもちょっと不完全燃焼。『墓場鬼太郎』とか『のらみみ』が意外と面白かったかな。逆に『逮捕しちゃうぞ』は往年の勢いが感じられなかったので残念。『絶望先生』『ハヤテのごとく』はまあ面白かったと言っておこう。
で、春から始まったヤツだと『図書館戦争』かなぁ。あとは『仮面のメイドガイ』とか。続編では『コードギアスR2』はそれなりに期待してて、良くも悪くも期待通りの滑り出し。それに『紅』とか『マクロスF』が続くかな。『ゴルゴ13』なんかもまずまず。

あれ、意外といろいろ楽しく見てるな…。ちなみに数えてみたら、今期は40本超えてました…。
集中力が低下している要因は、春に終了した番組の中で、劇的に絶賛したくなるような作品が見当たらなかったというところに起因するのかもしれません。年明けに書いたエントリーにも関連するけど、平均値高いながらも飛び抜けた作品がないって状況が相変わらずなのかなと思ってしまいます。昨期のベストを何か一本選べるかというと、ベストな一本をどうしても選びがたい。絶対的に推せる一本が無いって言うか。

とりあえず連休中に、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序を見ておくかな。結局、映画館には見に行かなかったし。

アニメは誰のものか

はてなの京都移転に対する各所の反応が「会社は誰の物か」論に発展していて面白かったんですよ。狭義では株主のものであるし、広義では利害関係者(従業員や取引先はもちろん、会社の規模や状況によって変わってくるけど社会)のものっていうのはある程度通説としても通ってる気がするんだけど、はてなに関しては特に後者の「広義」な部分での従業員の利害やユーザーの思惑のズレが今回の議論を呼んでるのかなと思いました。
本店移転って株主総会の特別決議事項だった気がするけど、はてなは上場企業じゃないし、ましてや新会社法上でいう非公開企業のような気がするので、この辺りの機動力とか柔軟性はあるのかな。


この話にインスパイアされて、「アニメは誰のものか」について考えてみました。この問題に関する考え自体は特にここ1年くらいでいろんな理由をつけてアニメが放送休止や打ち切りになる度に思ってはいたんですけどね。

で、狭義では金を出してる人間・組織のものか、あるいは制作会社のものなんだろうけど、最近は特に制作委員会方式が当たり前になったりしてその辺りのスキームが複雑になっているので、権利関係がややこしくなっているけど*1、たぶん法的に誰のものかというとこれが回答になるのではないかと思います。
ただ、実際に何かを感じて放送を取りやめる決断を下すのは得てして放送局で、この投資・制作スキームの中には深く入り込んでいないことも多々あります。ここ1年くらいで放送休止やそれに近かったりそれ以上の対応があったアニメは、独立U局系のものがほとんどだと思うので、アニメの制作そのものには直接的には関わっていないのかなと思われます、たぶん出資とかそれに近い形で金を出していることはほとんどないかなと。とはいえ実際に放送するのは放送局なので、制作委員会側と放送局の間で何らかの放送しない場合の特記事項とかがあるのではないかと想像されます。
この辺りの条件とかっていうのが視聴者にとって不明瞭であるために、いらない混乱や憶測を呼んでいるような気がしないでもないですが、表現の問題で休止や修正が発生した場合は、こういった点をもう少し情報公開しても良いんじゃないかと思います*2*3*4

「アニメは誰のものか」論に話を戻しますが、広義ではファンや視聴者のものとは言えてしまいます。見る人があってのアニメだというのに疑いようはないです。ただ放送休止をした時の放送局の言い訳って、もっと広い解釈をして「電波・放送は公共・社会のものだ」っていう大義名分の元にあるとも感じられます。

実際の事例を見ていくと、『School Days』の最終話っていうのはわかりやすくて、AT-Xで見たファンからも「地上波で放送しなくて正解だった」という感想が寄せられるほどだったわけです。地上波はダメでCSだとOKという判断基準について議論はありますが、視聴者が比較的限られるという点で棲み分けができているという判断なんでしょう。
こどものじかん』は局によって判断が分かれましたが、この事件は局による判断基準の違いが出たということ自体が注目すべきでしょうか。『ひぐらしのなく頃に・解』の後半が打ち切りになった事件もそうです。『シゴフミ』の3話が修正されたり6話が休止になったりというのも同様でしょうか。いずれの場合も局による判断基準の違いがあることが明らかになっています。
いずれの場合も関係者のコメントだったりファンの好意的な感想を見ると、「作品のテーマとしては、打ち切られる理由と別の所にある」というような意味の発言や書き込みが見受けられますが、実際には残虐だったり猥褻だったりという表現の一側面に対してこれらの措置が執られています。打ち切りや修正がなされる場合に、放送局の判断基準はそれしかないとも考えられますが、裏を返せば作品の制作意図や本意までを探って判断をするほど暇ではないということでしょうか。結果として制作者の意図やファンの期待を裏切ることになったとしても、「テレビの公共性」という建前との間でこれらの決定がなされているように思います。
そういう意味では、「アニメの放送」っていうのは実は「ファン不在」で行われているんじゃないかなという気さえしてしまいます。実際にはファンの存在を意識している制作者もいるし、全く見向きもしていない関係者もいて、その中で誰がどんな権利を持ってて、巡り巡って「ファン不在」な方向に進んでいくっていうこともあるという感じでしょうか。それぞれのシチュエーションで下された「放送休止」という判断が正しいのかどうか、例えば『School Days』の最終話が地上波で放送されたり、『こどものじかん』が無修正放送されたら何が起こったかなんて、もはや誰にもわかりません。

もちろん全てのファン心理・要求を取り込むことは不可能ですが、こういうイレギュラーな対処が行われた場合には、もうちょっと詳細な情報公開があってもいいのかなと思いました。別に「昨今の社会情勢を鑑み」と言われてもだいたいの想像はできますが、もうちょっと楽しみにしてるファンが納得できるコメントを出してもいいんじゃないかなとも感じます。

結局の所、「アニメは誰のものか」を考えた時に、ファンのものだと即答断言することは難しいですが、全ての利害関係者が幸せになれる方策を模索する努力があってもいいんじゃないかなと。簡単に放送局が「放送休止」という伝家の宝刀を抜いてしまうと、制作者でもファンでも納得できない場合があったりして、誰かが不幸せになることがあるような気がしてなりません。

*1:いや、厳密にはややこしくなくて、視聴者側からわかりにくいだけか

*2:JDC信託とかでファンド買ったり、懐かしのときメモファンドみたいなのを買うと、間接的に制作委員会に入り込めてるってことで知れたりするのかな

*3:バンブーブレード制作費流出事件」は興味深かったけど、こういう出資・権利関連のスキームも流出したら面白かった

*4:「原田ウィルス事件」の時に告訴した著作権者って誰なんだろう