ハルヒブームとハルヒ批評はどこへ行くのか

『動ポ2』→『ハルヒの分裂』と読んだわけです

本当は『涼宮ハルヒの驚愕』を読んでから、面白かったらレビューすればいいや、というか『涼宮ハルヒシリーズ』が完結してから思うところがあったらレビューすれば十分かなくらいの気でいたんですが、この週末に買ったまま放置していた東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2』『涼宮ハルヒの分裂』を続けて読んであまりのシンクロぶりに恐れ入ったのと、『分裂』の直系続編というか後編に当たる『驚愕』の延期が決定してしまったのと、週末に見た「NHKのど自慢」があまりに衝撃的だったので*1、ここのところ『ハルヒ』に対して考えたことを書いてみようと思います。

そもそも『ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』について

さて、その前に『ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』について書いておくと、前作『動物化するポストモダン』以降、波状言論の『美少女ゲームの臨界点』などを踏まえた現段階での東浩紀の集大成と言える一冊です。前作ではオタク特有の「データベース消費」についての原理と構造を解き明かして行きましたが*2、『動ポ2』では個別の作品論を交えつつポストモダンにおける文学性、あるいはライトノベル美少女ゲームにおける「構造の構造改革」を解き明かしていく一冊というとわかりやすいでしょうか。
今回、具体的な作品としては桜坂洋の『All You Need Is Kill』や美少女ゲームから『ONE』『Ever17』『ひぐらしのなく頃に』、小説では舞城王太郎の『九十九十九』が取り上げられています。巻末で『美少女ゲームの臨界点』に所収された『A I R』に関する評論があったり、名前だけ挙がったものとしては『未来にキスを』『CROSS†CHANNEL』『マブラヴ』『マブラヴオルタ』『ガンパレ』なんかが出てきつつ、『ハルヒ』も同じように挙がっています*3
わかりやすいながらも複雑な論旨なので簡単にまとめてしまうのは非常に申し訳なく思いますが強引にまとめてしまうと、コンテンツ志向とコミュニケーション志向の双方のメディアのクロスオーバーと物語構造のメタ化が進んで行く中で、自然主義文学との乖離が起こるというような話になるでしょうか。東浩紀の論調でいうと、ポストモダンオタク文化と言い換えてもいいかもしれないけど)は従来の自然主義文学的な批評をされる必要はないけど、ポストモダン的な批評はされるべきだみたいな雰囲気を感じることはできます。

ハルヒ批評」の方向性

それを踏まえて『涼宮ハルヒの憂鬱』から続く一連のシリーズは、そういう文脈の中で語られるべき作品なんだという考えはあまり違和感なく受け入れてしまうことができます。ましてや最新刊である『分裂』の物語構造が(『動ポ2』の直後に読んだからというだけかもしれませんが)、あまりにもお手本のようなメタ構造を持っていたことに驚きすら感じてしまいました。思い起こせばシリーズ第一作である『憂鬱』もそうだし、「エンドレスエイト」や「雪山症候群」のような特異な構造を持っている話もあります。原作ではあまり感じませんが、アニメ版の「射手座の日」なんかもそうでしょうか。
過去の作品では谷川流自身の意識としてそういう構造を取ろうとしたということはないのかもしれませんが、今回の『分裂』では中盤以降あえて露骨で意図的に「構造のメタ化」を押し進めています*4。この『分裂・驚愕』におけるメタ構造がどういう決着を見るのかは現段階ではまだ何とも言えませんし、そもそも『涼宮ハルヒシリーズ』全体の物語構造がどうなっているのかもまだ明かではありません。今回、アニメ放送開始から一年を経た段階でこのような新作を発表したことに対して、谷川流なりの挑戦や反抗があるのではないかという勘ぐりすらしたくなってしまいます。

個人的にはデビュー当時の段階では『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品をあまり評価していなかったのですが*5、昨年のアニメ化とそれを踏まえることになったデビュー後の作品群、そして今回の『分裂』を見て、現代的な、あるいは21世紀的な文脈で語られるべき作品だということを認識させられました。個別の作品論としてももちろんですし、東浩紀が言うような清涼院流水から舞城王太郎西尾維新佐藤友哉に至るメフィスト系作家と上遠野浩平から乙一滝本竜彦に至るようなライトノベル系作家の流れ、旧来的な意味でのミステリやライトノベルの文脈とは違う流れで語られるべきなのではないかと思います。*6

それを踏まえて「ハルヒブーム」について

というわけで、今になって『ハルヒ』に対してそういう作品観を抱くようになったわけです。一部のブログ界隈では『憂鬱』の頃からそういう文脈で語られることが皆無というわけでもなかったと思うし、昨年のアニメに関してもそういう真っ当な分析がブームを支えていたという声すらあります。個人的には非常に遅きに失した感があって情けないような気持ちもあります。
ところが一転して「ブームとしての『ハルヒ』」に目を向けると、それこそ東浩紀が言うところの「データベース消費」が強烈な勢いで進行(信仰)*7しているという印象を強く感じます。NHKののど自慢でコスプレしてダンス付きで「ハレ晴レユカイ」を歌うとか、「驚異的人数でハレ晴レユカイを踊るoff」とかっていうのは、ある種「データベース消費の極地」まで行ってしまっているんではないかと危惧してしまいます。どちらも2ちゃんねるなんかでは比較的冷ややかな反応を受けているようなのでまだ安心できますが、作品の本質とは無関係な部分で消費だけが先行していくという状況をどのように捉えればいいものなのでしょうか。
こういう状況は例えば『Kanon』や『A I R』に関してもありましたが、あの場合は同時に泣きゲーとしての評価が一定の地位を占めていたのでまだ理解できたように思います。美少女ゲームなら『君が望む永遠』なんかでもそうだし、もっとさかのぼれば『エヴァ』のように最終的に作品論の方が強烈に進んだ例もあります。
しかしながら『ハルヒ』の場合は「データベースとしての消費」が作品論よりも大幅に先行しているのはたぶん事実でしょう。1年前には感じなくて、今になって思うっていうのは何なんでしょう。アニメ放送時に作品論はほぼ語られ尽くしてしまったというのはあるかもしれません、もちろんシリーズとしては完結してないわけですが。加えてその後のアニメと原作の空白期間の間にファンの間に鬱積したものが噴き出してるというのが真っ当な分析になるのかもしれません。
一番危惧しているのは、このまま「作品としての『ハルヒ』」が無くても消費が続いて、例えばシリーズが完結したりしてもあまりその事実には興味を持たれないという事態です。ライトノベルの世界ではたまにあるような轍という気がしないでもないですが、『涼宮ハルヒシリーズ』を単なるライトノベルで終わらせてしまうのはもったいないという状況、特に前述のような東浩紀的文脈での評価ができる状況を鑑みると、それだけは避けて欲しいなと思わざるを得ません。とはいえファン心理によってしまうものなので、誰かが何かをしてどうにかなるという類のものでもないのかも知れませんが。

*1:まあニコニコ動画で見たんですけどね。ニコニコ動画YouTubeもすぐに削除されそうな気がするので、ブログちゃんねるにリンク張っておきます

*2:あんまり正確じゃないかもしれないけど、ものすごい一言で片付けてます

*3:東さんの趣味に走ってるきらいがありますけどね。前作では『YU-NO』の分量が異常に多いし

*4:ついでに佐々木に関してちょっとした叙述トリックみたいなのを混ぜてたりもする

*5:ライトノベルデビュー作を評価しないことにしているという色眼鏡があったせいが大きい

*6:アニメしか見てないので深くは触れづらいんだけど、『ハルヒ』って例えば『いぬかみっ!』とか『ゼロの使い魔』みたいな昨今のアニメ化された人気ライトノベルと比べても異質だと思うんですよね。とはいえここで言ってる『ハルヒ』と同じ文脈で語られるべき作品っていうのは他にもいっぱいあるとも思います。『イリヤの空、UFOの夏』なんかはよく名前が挙がりますし、美少女ゲームなんかでもいっぱいあるでしょう

*7:ちょっと清涼院流水っぽく書いてみるテスト