同人誌「オタク・イズ・デッド」に関して

遅きに失した感はありますが、コミックマーケット70の3日目に岡田斗司夫さんのサークルで「オタク・イズ・デッド」をゲットしてきました。次の日くらいにmixiでファーストインプレッションを書いてみたら、岡田さんご本人とか氷川竜介さんから足跡が残ってたりしてびっくりしましたが、その時の内容に加筆修正みたいな感じで感想を。

オタクにおける世代間論争をする場合に、第一・第二・第三世代という言い方をされるわけですが、氏によると第一世代は「貴族主義」、第二世代は「エリート主義」、第三世代はあえて○○主義みたいな名付けはされてないけどしいていえば「自分主義」みたいになるのかな。代表的な論客としては第一世代が岡田氏本人、第二世代が東浩紀氏とか斉藤環氏、第三世代として本田透なんかが挙げられています。

話は前後しますが氏が近年感じたというTVチャンピオンしゃべり場での違和感っていうのは、確か似たようなことを感じてmixi日記にも書いた記憶がありますが、氏の発言としてその理由を聞くと納得できてしまいました。確かに彼らは言うほど濃くないんですよね。
なんか「オタク」という存在そのものがカジュアル化しちゃったんじゃないかなと感じるわけです。オタクであることに貴族意識もエリート意識も必要じゃなくて、単なる生活様式のひとつとして認められつつあるんじゃないかなと。だからTVチャンピオンに出てた清水愛の追っかけの彼が追っかけとしてそれ以上でも以下でもないところで堂々としてたり、しゃべり場でオタクを認めろと叫んだ彼が実はカミングアウトしてないのにそれなりにあの場に溶け込めてていたりとか。本田透の「電波男」「電波大戦」は未読なんですが、そういうある種の開き直りがまかり通ってしまうというのも象徴的なのかもしれません。
秋葉原信仰」がオタクにとって絶対的な価値観であるみたいなマスコミの報道姿勢があるように感じられるけど、それも「アキバでアキバらしい振る舞いをしてればオタク」と位置づけられてしまうのも、カジュアル化が進んでる事象のひとつなんでしょう。

それからオタクの「自分主義」みたいなのが認められる背景には、近年の「セカイ系ブーム」も無縁ではないのかなとか思ったりもしました。第二世代の人たちは比較的客観的にそれを分析している印象があるけど、僕等よりも若い世代はむしろどっぷりとセカイ系に共感してるんじゃないかなとかね。

ちなみに世代的には79年生まれの27歳のワタクシとしては第三世代に属しているつもりだったんだけど、第一世代への羨望と第二世代への共感、そして第三世代というか「萌え至上主義」みたいなものへの反感も持っていたりもするので、2.5世代くらいなんじゃないかという気がしてきました。「SEED」や「ハガレン」を絶賛してる20代前後やそれ以下の若い世代っていうのが、どうにも理解しがたいこともあるし。
確かに「萌え」という概念がオタクの共通概念であるようなパブリックイメージが形成されつつあるけど、それはある程度のオタクがそうではないということを肌で感じているとは思います。ただ民主主義的な数の論理で言えばそれが主流になってしまっているのもまた事実。これはアキバブームとか電車男の功罪だと思うけど。

「オタクは死にました」っていうのは岡田さんが言うと衝撃発言だけど、死んだのは貴族主義とエリート主義だって明言してたんですね。貴族主義におけるノーブレス・オブリージの概念も共感できるんですけどね。前々からこの手の世代間論争は単なる世代交代なんじゃないかなと思ってたんだけど、実はそういうことなのかな。
だからこそ岡田さん本人が最近はオタクそのものに対する評論よりは「プチクリ」という概念の啓蒙に寄ってるように思いますが、それに対する動機づけ、あるいは岡田さん自身の内面の吐露が「オタクは死にました」という発言に繋がったのではないかと感じます。