「劣化コピー」という酷評

そういえばサイト上でアニメを酷評してしまうときに、「劣化コピー」という言い方をすることが結構あるとふと思いました。最近で言うと『落語天女おゆい』だったり、ちょっと前だと『萌えよ剣』だったり、さらに前だと『らいむいろ戦奇譚』だったり、いずれも『サクラ大戦』が軸になってそう思っていたわけです。私自身、『サクラ大戦』は非常に思い入れのある作品ですし、だからこそ似たような作品が出てきても決して超えられないと思ってしまうのも致し方ないのかなとも思いますが。
ある人気作品の似たような作品が出てくることは一概には否定できませんし、複数の作品に垣間見える系譜を考えることによって新たな評価もできるように思います。現にそういう作品はたくさんあります(『ラピュタ』→『ナディア』とか)。

閑話休題

ストロベリーパニック』の第5話「妹たち」を見ていたら、「あぁ、『マリみて』の劣化コピーだな」と思ってしまいました。誤解を恐れずに言えば、いわゆる少女向けである『マリみて』の世界を『シスプリ』が受けるような層に対して作り込んでみたのが『ストロベリーパニック』なのではないかという、大雑把な感想を持ったわけです(公野櫻子から来る先入観もありますが)。
劣化コピーだと思えてしまう最大の理由は、『マリみて』にある完成された世界観みたいなものの上っ面だけをリスペクトしてるだけなのではないかという疑念を抱いてしまったからです。単刀直入には「妹制度」*1ってそのまんまじゃんというツッコミが可能だったと言い換えられるでしょうか。『マリみて』みたいな作品が他に(特に『マリみて』以前に)ないわけではないだろうとは思いますが、奇しくも人気作品になってしまった先行者利益のようなものはあるのではないかと思います。後発の作品が結果として似たような世界観を描くことになった場合は、もっと注意を払って欲しいなと思います。
視聴が遅れに遅れてしまっているのでこの先あのドジっ娘妹キャラ(CV斎藤千和)がどうなっていくのか、世間とは差があるかもしれませんが、この作品の「らしさ」が出てくるといいなとは思います。

余談1。世間では「京都アニメーションマンセー」な風潮がありますが、この作品のマッドハウスの仕事っぷりを見ると一時期の威光が懐かしく見えてしまうのは気のせいなんでしょうか?

余談2。『ストロベリーパニック』を見続ける最大の原動力は、7割がエンディングのプロモ、残りの3割は中原麻衣清水愛の百合芝居だったりして。*2

*1:よい子は「スール制度」って読める

*2:漫才とも言う